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1/02 ラグビー観戦

母校のラグビー部が全国大学選手権の4強となり、11大会ぶりに秩父宮ラグビー場で準決勝を闘うことになりました。

0102b久し振りの準決勝、待ち構えていたOB・OGたちで観客席は燃えています。

穏やかに晴れて、絶好のラグビー日和です。

熱い声援にもかかわらず、残念な結果に終わってしまいました。来年に期待しましょう!

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「また、来いよ!」と声がかかりました。

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9/21 生誕150年

ビアトリクス・ポター生誕150年を記念したピーターラビット展を観てきました。

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1866年7月28日ヴィクトリア朝の時代に裕福な家庭に生まれました。厳格な両親は彼女を学校に通わせず、家庭教師をつけて教育しました。

17歳になった頃、3歳年上のアニー・カーターが家庭教師としてやってきて、19歳になるまで共に過ごしたのです。

結婚したアニーの子供たちを可愛がり、絵手紙を送ります。この絵手紙をもとにして絵本「ピーターラビットのおはなし」が私家版として出版されました。

子どもの頃から動物や植物のスケッチが大好きでした。夏になると、家族とともに過ごしたイングランド湖水地方で豊かな自然と出会い、その素晴らしさに魅せられていきます。

美しい自然に対する深い愛情が自然保護活動に繋がっていきました。まだ、女性が社会で活躍するのが難しい時代でした。

繊細なスケッチ、優しい色使い、ビアトリクス・ポターに大きなインスピレーションを与えた湖水地方を訪ねてみたいと思っています。

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2/24 超絶技巧

明治、大正期に世界を驚かせた、壺、水差し、茶道具、香のお道具、人形などの焼き物を作った真葛香山展を観てきました。吉兆庵美術館蒐集の作品です。

今年は真葛初代 宮川香山没後100年になります。

1842年(天保13年)京都で代々焼き物を作っている京焼き窯元の家に生まれました。後に窯を横浜へ移し、真葛窯を開きます。四代にわたり隆盛を極めました。国内外から人気を博し、1876年(明治9年)フィラデルフィア万国博覧会で受賞して、ロイヤルコペンハーゲンなどヨーロッパの焼き物にも影響を及ぼします。

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外国風の焼き物、色釉手赤絵付水瓶(いろゆうでかえつきすいびん

絵師 三代目大雅堂に師事し、その絵付けの技も見事です。薩摩焼の技法に変わる高浮彫(たかうきぼり)と呼ばれる新しい技法、清朝の磁器を元に釉薬の研究、釉下彩の研究に没頭しその技法をものにします。その努力が評価されて、栄誉ある帝室技芸員に選ばれました。

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古い清水焼の作風を模倣した作品、繊細な筆遣いで菊の花が描かれている古清水意真葛窯水指(こみよみずいまくずがまみずさし)

1945年(昭和20年)の横浜空襲によって罹災し窯・家は全焼、真葛焼きは今ではまぼろしの焼き物になってしまいました。

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晩年に制作した傑作、褐色の高取釉の鉢にワタリガニが張り付いています。真葛窯変釉蟹彫刻壺花活(まくずようへんゆうかにちょうこくつぼはないけ

まさに、超絶技巧です。

 

 

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9/19 ライプツィヒ散策

午前中は自由行動、メンデルスゾーンハウスとシューマンハウスに出かけました。

 

F.メンデルスゾーン(1809-1847)の旧宅で1.2階が博物館になっています。

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親しい友人たち(R.シューマン夫妻、R.ワーグナー、E.ベルリオーズ・・・)を招いて音楽サロンで日曜音楽会を開いていました。修復後、日曜コンサートが復活し現在も続けられています。

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2階は実際に暮らした住まい、19世紀ロマン派の雰囲気が感じられます。オラトリオ「エリア」が完成した書斎と、1844年建設当時のままの階段です。

 

R.シューマン(1810-1856)がピアノの先生の娘クララと結婚(1840年9月12日)した当時から1844年にドレスデンに転居するまで暮らした新古典主義建築です。

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童話作家のアンデルセンやワーグナーも訪ねました。

14:30に聖トーマス教会のバッハ像前に集合し、明日からのコンサートに向けて練習が始まります。

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5/08 GW明けの楽しみ

天候に恵まれたGWが終わって、日常が戻ってきました。

平日午前中の銀座は海外からの観光客の姿も少なく、落ち着いた街です。

デパートで開催中のミッフィー展を静かにゆったり楽しむことができました。

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オランダ生まれの絵本作家D.ブルーナによって誕生したナインチェ(オランダ語)ミッフィー(英語)が、今年60周年になります。

1955年に出版された「ちいさなうさこちゃん」の原画やスケッチ、制作資料のほか画家として描いた油絵や水彩画、奥さんに贈った「朝食メモ」も展示されています。

ブルーナカラーと呼ばれる赤、青、黄色、緑、白にシンプルな手書きの線で描かれたミッフィー、自分の息子のために描かれました。

子どもも大人も楽しめるやさしくあたたかい絵本です。

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5/03 GWの楽しみ ~都心散歩~

車も人も少なく、静かな都心です。

以前に車で何度か通りかかったことのある泉屋博古館分館、小川千甕(1882-1971)の絵を展示していました。

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京都に生まれ、少年時代は仏画を描いていましたが、洋画を学んで新感覚の洋画を発表します。その後、東京で挿絵や漫画の仕事をし、ヨーロッパにも渡りました。

仏画あり、ルノアール風の風景画あり、ユーモラスな俗画あり、枠にとらわれない縦横無尽に生きた画家です。

付近にはスウェーデン大使館やスペイン大使館があって、緑濃く閑静な佇まい、新緑の中を風に吹かれて心地よい都心のお散歩でした。

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6/01 合宿

混声合唱の合宿に参加しました。

会場は河口湖畔、久しぶりのドライヴを楽しみます。練習用CDを聴きながら・・・。

富士山を眺め、新緑に囲まれたサイトを散策、響きの良い木のホールで練習しました

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夕食後に撮った夕映えの富士です。

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早起きして湖畔を散歩、静かな湖面に映る逆さ富士です。

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一泊二日10時間の練習で、J.S.バッハ:ミサ曲ロ短調と仲良くなれたような気がしました。

本番は12月7日(日)です。

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2/22 同志社講座 秋学期 最終回

ハンサムカップル「新島襄と八重」の最終回です。

1875年4月新島襄が入洛し、八重の兄山本覚馬と出会い、学校設立の大筋ができます。山本家に寄宿していて、八重と出会いました。

1876年1月2日にJ.デイヴィスから受洗、1月3日に新島襄と結婚、それまで勤めていた女紅場(後の府立女学校)を解雇され、校長夫人、宣教師夫人として自宅に私塾を開き、女子教育に携わります。J.デイヴィスの京都ホームから同志社女学校へと繋がって行きました。(神戸ホームは神戸女学院となりました。)

信徒としての次のような八重の言葉が残されています。

「美徳、以て飾りと為せ」「キリストの心を心とせよ」「神のよき友と為れ」

1890年1月23日新島襄永眠後、日赤の社員として、ボランティアナースとして、社会福祉活動に尽力、日清戦争、日露戦争には篤志看護婦として従軍し、看護学校の助教師として後進の指導にもあたりました。

又、1893年圓能齋(今日庵 裏千家第13代家元)に師事、当時の茶道人口の99%は男性でしたが、女性に門戸を広げ、宗竹と名乗って自宅に茶室「寂中庵」を開き、女性茶人を育成しました。

現在も裏千家と同志社の関係は密接です。

02_22講師であった神学部教授本井康博先生は同志社を退官されたので、2009年4月同志社講座in Tokyo「同志社誕生の軌跡」で始まった講座は、今回で最終回となりました。

各学期5回の講座を皆勤すると修了証が頂けます。ずっと頂いていた修了証ですが、今回は1回欠席したので、残念ながら頂けませんでした。

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10/12 同志社講座 秋学期

秋学期のテーマはハンサムカップル「新島襄と八重」の後編、第1回は同志社開校に果たした山本兄妹「覚馬と八重」の役割です。

山本覚馬(1828-1892)

会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男として鶴ケ城近くの武家屋敷に生まれました。藩校日新館で学んだ後、22歳で江戸に出て蘭学や洋式砲術の研究をします。28歳で会津に戻り日新館の教授になりましたが、1862年藩主松平容保が京都守護職を拝命したのに従って上洛し、在京の諸藩士に西洋式軍隊や洋学の講義を行いました

1868年鳥羽伏見の戦いでは幕府軍(会津藩)として薩長と戦い、薩摩藩に捕われ、薩摩藩邸に収容されました。この幽閉中に建白書「管見」を口述筆記して藩主に上程しこれを読んだ小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らが共鳴します

この建白書(謙遜して管見と言っている。)には、政治、経済、金融、教育、衛生、女子教育、外交、貿易など22項目にわたって具体的に著されています。将来を見据えた優れた先見性に富んでいて、明治新政府の政策の骨格とも繋がっていきました。

明治維新後、京都府顧問となり槇村知事のもとで初期府政の勧業政策を推進、京都の近代化に大きく関わりました。1872年日本最初の内国勧業博覧会を開催します。外国人も含む観光客を誘致、大阪で伝導していたアメリカン・ボードの宣教師M.L.ゴードンと知り合います。彼の天道溯源を読んで大いに共鳴、キリスト教に対する誤解が解け、日本人の心を磨き、進歩を促進する力となり得ると感じる様になりました。

1875年、博覧会見物に入洛した新島襄と知り合い、彼の学校設立計画を聞いて協力を約束しました。覚馬は維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地(6000坪)を学校用地として新島に譲り、次いで新島との連名で「私学開業願」を文部省に出願し、認可されます。現在の今出川キャンパスとなりました。同志社は山本覚馬の命名と言われています。

八重にとって17歳上の兄覚馬の影響は大きく、京都府顧問となった兄を頼って上洛、兄の勧めでキリスト教や英語を学び、女紅場の教員となります。1875年、新島襄と婚約、1876年に受洗、京都で初めてのプロテスタント式結婚式を挙げて、校長夫人、牧師夫人となりました。

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7/20 同志社講座2012 春学期

ハンサムカップル「新島襄と八重」の4回目、「会津女性史の中の新島八重」です。

会津の女性は維新の際においては、日本女性の花とも云うべき者を多く出しました。(徳富蘇峰)

会津戦争を体験した6人の会津女性

中野竹子>幕末のジャンヌ・ダルクと言われました。薙刀の名手で娘子隊(じょうしたい)のメンバー、男装して会津戦争に従軍し、戦死しました。八重を薙刀隊に誘いましたが、「これからは鉄砲の時代」と言って断ります。銃弾を受け、倒れた際に握られていた薙刀に結ばれていた辞世の句です。「もののふの猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」

山川捨松>後に大山巌夫人になるクリスチャンレディーです。家老の娘で、岩倉使節団の一員として11歳でアメリカに留学、ヴァッサーカレッジを卒業して初の女性学士となりました。アメリカで身につけた社交ダンスで鹿鳴館の花となり、チャリティーバザーを催して看護学校設立の資金を作ります。共に留学した津田梅子を助けて女子教育にも貢献しました。

海老名リン>海老名季昌夫人、霊南坂教会で綱島佳吉牧師から洗礼を受けたクリスチャンレディー、会津地方の幼児教育、女子教育の功労者で、若松幼稚園、会津女学校を設立しました。キリスト教の教えを謙虚に実践、神の前に男女すべて平等であることを思い、教育や社会活動に目を向けるようになり、東京基督教婦人矯風会でも活躍しました。

若松賎子>巖本善治夫人、幼名は甲子(カシ)7歳の時に英学塾(後のフェリス女学院)に入り、アメリカ式の教育を受けます。横浜海岸教会で稲垣信より洗礼を受けてクリスチャンレディーになります。卒業後は母校の教壇に立ちました。結婚後、夫の明治女学校で教鞭をとる傍ら、若松賎子(神のしもべの意)の名で文筆活動をし、バーネット「小公子」を翻訳しました。

瓜生岩子>熱心な仏教徒、日本のナイチンゲールと言われました。社会福祉、社会事業の先駆者、福島瓜生会を設立します。女性初の藍綬褒章を受賞しました。死の2日前の和歌「老の身のながからざりし命おも助けたまへる慈悲の深さよ」

山本八重>新島襄夫人、砲術師範の家に生まれ、兄覚馬の影響を強く受けました。鳥羽伏見の戦いで弟三郎を失ってからは、その形見の装束を身につけ七連発のスペンサー銃を持って戦いましたが、新政府軍に敗れて、「あすの夜はいづくの誰かながむらむ馴れしみ空に残す月影」と詠みます。

洋学者として京都府の顧問に迎えられていた兄覚馬を頼って京都にやってきた八重は英語を学び洋髪洋装の婦人となり、日本最初の女学校「女紅場」の舎監兼教師になります。新島襄と出会い、洗礼を受けてクリスチャンレディーとなり、同志社では女子教育に貢献しました

襄の死後社会福祉活動に尽力、日清戦争、日露戦争には篤志看護婦として従軍し、看護学校の助教師として後進の指導にもあたりました。その功績により昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜されます。女紅場時代に知りあった円能斎の影響で茶道に親しみ、新島宗竹の名で茶道教授となり、茶道教室を開いて裏千家流を広めることにも貢献しました。

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